春秋余話
言葉の歳月
「春秋余話」を書こうと思ったのには、小さな理由があります。
振り返れば、あの頃の私は、強い言葉が好きでした。
少し過激なくらいの方が人の目を引くと思っていましたし、誰かを否定することが、自分の信念を貫くことだと信じていました。
「違う。」
「それはおかしい。」
そんな言葉を並べれば、自分の考えは伝わるものだと思っていたのです。
けれど、歳月とは不思議なものです。
同じ景色を何度も見て、同じように人と出会い、同じように別れを経験するうちに、言葉は少しずつ変わっていきました。
変わったというより、削られていったと言った方が近いのかもしれません。
今になって振り返ると、あの頃の私は、自分の正しさを伝えることに一生懸命で、相手の立場から物事を見る余裕がなかったように思います。
世の中には、自分の知らない事情があります。
正しさもまた、立場が変われば違って見えることがあります。
そう思えるようになってから、「きっと、そうなのだろう」という言葉が、自分にはしっくりくるようになりました。
昔は、誰かに勝つために言葉を使っていました。
今は、誰かと分かり合うために言葉を使いたいと思っています。
だから、この「春秋余話」では、誰かを言い負かす文章ではなく、読んだ方が少し立ち止まり、自分自身のことを思い返したくなるような文章を書いていきたいのです。
答えを押しつけるのではなく、一つの見方をそっと置いて帰る。
読み終えたあと、「私はどうだろう」と思っていただけたなら、それ以上の答えはいりません。
この随筆は、誰かを変えるために書くものではありません。
私自身の言葉を育てるために書くものです。
もし、その歩みに読んでくださる方が静かに付き合ってくださるなら、これほど嬉しいことはありません。
人は歳月を重ねるたびに、考え方が少しずつ変わっていきます。
言葉もまた、その人と一緒に育っていくのでしょう。
それもまた、悪くない。

