「思無邪」
初めて見れば、つい「しむじゃ」と読みたくなる言葉です。
けれど私は、この四文字を「思い、邪(よこしま)なし」と読む、その響きが好きです。
『論語』為政篇には、孔子の言葉として、
詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。
とあります。
『詩経』に収められた多くの詩を一言で言い表すなら「思無邪」である――という言葉です。
昔の言葉ですが、私はこれを読むたびに、為政者や組織のリーダー、そして商いをする人にも通じる言葉ではないかと思います。
邪心がなければ、人は堂々としていられる
仕事をしていれば、お金をいただく場面があります。
自分の商品やサービスを人に勧めることもあります。
時には、価格を上げる決断をしなければならないこともあるでしょう。
そんな時、
「こんな金額をいただいていいのだろうか」
「売ることは悪いことではないだろうか」
と迷うことがあります。
もちろん、その迷いそのものが悪いわけではありません。
むしろ、そこで一度、自分自身に問うてみる。
これは本当に相手のためになるのか。
自分だけが得をしようとしていないか。
人を欺こうとする気持ちはないか。
そこに私心はないか。
その問いに自分なりに胸を張って答えられるなら、行動はずいぶん変わるように思います。
使命感は、人を強くする
「お金をもらうことへの罪悪感をなくそう」
そう考えるよりも、私は、
「これは人の役に立つ」
と心から思える仕事をする方が強いと思っています。
売りたいから売るのではない。
儲けたいから勧めるのでもない。
もちろん商いである以上、利益は必要です。
けれど、その奥に「これを必要としている人の役に立ちたい」という志がある。
その時、人の行動には力が生まれます。
私はそれを、使命感の強さなのだと思っています。
リーダーほど「思無邪」が必要になる
これは商売だけの話ではありません。
人の上に立つ人ほど、自分の判断が多くの人に影響します。
為政者もそうでしょう。
会社や組織を率いる人もそうです。
小さな集まりの責任者であっても同じです。
権限が大きくなればなるほど、自分の都合を「みんなのため」という言葉で包むこともできてしまいます。
だからこそ、決断の前に自分へ問う。
この判断に、邪なものはないか。
自分の名誉のためではないか。
自分の利益だけを守ろうとしていないか。
本当に、人のためになると思っているのか。
「思無邪」は、他人を裁くための言葉ではなく、自分自身に向ける言葉なのだと思います。
志があるから、迷わないのではない
先日、橋本左内の『啓発録』にある「振気」について考えました。
気を奮い起こす。
そして、その気が向かう先には「立志」がある。
志を立てることについて考えていると、この「思無邪」という言葉とも、どこかでつながってくるように感じます。
志があれば、一度も迷わなくなるわけではありません。
むしろ、大切な決断ほど迷うものです。
その時、自分が立てた志に戻る。
そして、その志そのものに私心が混じっていないかを問い直す。
それが、人を率いる者には必要なのではないでしょうか。
邪心があると、単純な思いが見えなくなる
私は時々、こんなことを思います。
人の言葉の裏ばかり読もうとしていると、本当に裏のない人に出会った時、その人のことが分からなくなるのではないか。
「何か企んでいるのではないか」
「本当の目的は別にあるのではないか」
そう考えることに慣れてしまうと、
「ただ、人のためにやりたい」
という単純な思いにさえ気づけなくなる。
もちろん、人の心など簡単に分かるものではありません。
だからこそ、人の邪心を探すより、まず自分の心を省みたい。
言葉と、その言葉を発する自分自身のあり方については、春秋余話の「言葉と人柄」でも考えました。
「思無邪」を自分自身に向ける
人は、自分のことになるとなかなか分かりません。
「人のため」と言いながら、本当は自分が認められたいのかもしれない。
「正しいことをしている」と思いながら、自分の正しさを相手に押しつけているのかもしれない。
だから私は、「思無邪」という言葉を、自分が正しいことを証明するためには使いたくありません。
むしろ反対です。
自分の思いに、邪なものはないか。
そう、自分自身に問いかけるための言葉として持っていたい。
人の心は、そう簡単には思い通りになりません。そのことは「心ほど思い通りにならないもの」にも書きました。
だから何度でも、自分の心に戻る。
志はあるか。
私心はないか。
人のためになっているか。
思い、邪なし。
言葉にするのは簡単ですが、これを貫いて生きるのは、なかなか難しい。
だからこそ、時々思い出したい言葉です。
人の邪を探すのではなく、まず自分の心を省みる。
自戒をこめて。
参考資料
- 『論語』為政篇
- 『詩経』魯頌「駉」
