武士は、いつも何を心に持って生きていたのだろう。
そんなことを考えながら、橋本左内の『啓発録』を読み返しています。
橋本左内は幕末の福井藩士です。
驚くのは、その若さです。
左内が『啓発録』を記したのは、数え年十五歳のころ。
そこには、自らを律するための五つの心得が記されています。
去稚心(きょちしん)――稚心を去る。
振気(しんき)――気を振るう。
立志(りっし)――志を立てる。
勉学(べんがく)――学に勉める。
択交友(たくこうゆう)――交友を択ぶ。
まだ少年と呼んでもおかしくない年齢で、自分自身にこれほど厳しい言葉を突きつけている。
『啓発録』を読む面白さは、ここにあると思います。
まず「稚心」を去る
最初に出てくるのが、去稚心です。
幼い心を去る。
もちろん、子どもらしさを捨てろという単純な意味ではないでしょう。
怠けたい。
楽な方へ逃げたい。
人に甘えたい。
やらなければならないことを先延ばしにしたい。
そうした自分の未熟さに流されない。
私は「去稚心」を、そのような自分自身への戒めとして読んでいます。
ところが『啓発録』は、それだけでは終わりません。
稚心を去ったなら、次に何をするのか。
そこで出てくるのが、「振気」です。
「振気」とは何か
振気。
「しんき」と読みます。
文字の通り、気を振るう。
自分の内側にある気力を奮い起こすことです。
ただ幼さを捨てて、おとなしく真面目にしていればいいわけではない。
自ら気を奮い起こし、進んでいく。
ここに、左内が求めた人間の強さが見えるように思います。
武士というと、私たちはどうしても外側の強さを想像します。
しかし、本当に人を動かすものは、外側にあるものだけではありません。
恐れがあっても進まなければならない時がある。
迷いがあっても決めなければならない時がある。
苦しくても、自分の務めを果たさなければならない時がある。
そんな時に必要になるのが、自分の内側から気を奮い起こす力なのでしょう。
では、何のために気を奮い起こすのか
ここで私は、次の「立志」という言葉がとても重要になってくると思っています。
ただ気合を入れるだけなら、長くは続きません。
勇ましい言葉を叫んでも、自分がどこへ向かうのか分からなければ、その気力はやがて散ってしまう。
何のために生きるのか。
何を成し遂げたいのか。
自分は、どういう人間でありたいのか。
その志が定まって初めて、奮い起こした気が向かう先も定まる。
だから私は、『啓発録』の「振気」を考えていくと、どうしてもその次に置かれた「立志」へ行き着きます。
志がある人は強い
志を持つというのは、大きな夢を語ることだけではないと思います。
仕事でもいい。
学問でもいい。
家族を守ることでもいい。
人の役に立つことでもいい。
自分が「これだけは大切にして生きる」と決めるものがある。
それが、その人の軸になる。
軸があれば、迷わなくなるというわけではありません。
怖くなくなるわけでもありません。
それでも、迷った時に戻る場所ができます。
私は、それが「志」の強さなのだと思います。
十五歳の言葉に、今でも叱られる
『啓発録』を読んでいると、ときどき苦笑したくなります。
書いたのは、数え十五歳の橋本左内です。
ところが、その言葉が実に厳しい。
目的もなく日々を過ごしてはいないか。
学ぶことを怠ってはいないか。
自分を鍛えることから逃げてはいないか。
そんなふうに、時代を越えてこちらに問いかけてくるように感じます。
大人になればなるほど、耳が痛い。
「今日はこれくらいでいいだろう」
「また明日やればいい」
そうやって自分に言い訳をしている時に、十五歳の左内から叱られているような気持ちになります。
現代にも「振気」は必要なのだと思う
私たちは武士として生きているわけではありません。
けれど、「振気」という考え方まで過去のものになったとは思いません。
何かを始める時。
逃げたくなった時。
もう一度立ち上がろうとする時。
人には、自分で自分の気を奮い起こさなければならない瞬間があります。
ただし、勢いだけではいけない。
だからこそ、志を立てる。
稚心を去り、気を振るい、志を立てる。
『啓発録』の五訓は、それぞれ別々の言葉でありながら、こうして読んでいくと、人が自分自身を律していく一つの道筋のようにも見えてきます。
私はまだまだ、稚心を去りきれません。
気が萎えることもあります。
志を見失いそうになることもあります。
だからこそ、ときどきこうした昔の言葉に戻って、自分自身に問いかけてみたいと思います。
お前は何を志しているのか。
そのために、今日、自分の気を振るうことができているか。
十五歳の左内の言葉は、今を生きる私たちにも、なかなか厳しい。
自戒をこめて。
参考資料
- 橋本左内『啓発録』
- 福井県「立志式について」
- 福井市「橋本左内先生顕彰会」関連資料
- 国立国会図書館サーチ『啓発録』書誌情報

