春秋余話 ― 幸せは、どこにあるの

春秋余話

幸せも、苦労も、もしかすると自分の「ものの見方」によって、その姿を変えているのかもしれません。

今日は、幸せについて少し考えてみたいと思います。

相対的な幸せと、絶対的な幸せ

幸せには、「相対的な幸せ」と「絶対的な幸せ」という二つの捉え方があります。

相対的な幸せとは、自分の外側にあるものによって感じる幸せです。

たとえば、

  • お金があれば安心する
  • 好きな人がそばにいれば幸せ
  • 仕事がうまくいけば嬉しい
  • 地位や評価を得られれば満たされる

もちろん、これらも立派な幸せです。

私だって、仕事がうまくいけば嬉しいですし、大切な人と過ごせば幸せを感じます。

ただ、そこには一つ難しいところがあります。

自分の外側にあるものは、いつまでも同じとは限らないということです。

お金を失うこともある。

仕事がうまくいかないこともある。

大切な人との別れもあります。

人からの評価も変わります。

外側にあるものだけに幸せを預けてしまうと、それを失ったとき、自分の幸せまで一緒に失ってしまうことがあります。

自分の中にある幸せ

一方で、絶対的な幸せとは何でしょう。

私は、置かれた状況だけに左右されず、自分の中に「それでもありがたい」と思えるものを持つことではないかと考えています。

何があっても苦しくない、という意味ではありません。

悲しいときは悲しい。

つらいときはつらい。

思いどおりにならなければ、悔しい。

それでも、自分の人生のすべてを「不幸だった」と決めてしまわない。

失ったものだけではなく、今、自分に残されているものにも目を向けてみる。

そこに、自分の外側だけに支配されない幸せがあるように思います。

苦しみを知って、初めて見えるものもある

こうした考え方は、簡単に身につくものではないと思います。

むしろ私は、人生で苦しい経験をしたときほど、それまで見えなかったものに気づかされてきました。

悲しんでいる人の気持ち。

うまくいかない人の悔しさ。

何気ない日常のありがたさ。

誰かがそばにいてくれることの尊さ。

苦しみそのものが必要だと言いたいのではありません。

苦しんでいる最中に、無理やり「これは幸せなのだ」と思い込む必要もありません。

ただ、後になって振り返ったとき、あの経験があったからこそ分かるようになったことが、自分の中に残っている場合があります。

それもまた、人生の勉強なのかもしれません。

いま苦しい人へ

もし今、つらい状況の中にいるのなら、その出来事の意味を今すぐ決めなくてもいいと思います。

「どうして自分だけが」

そう思う日があってもいい。

それでも、いつか少し落ち着いたときに考えてみてください。

この経験を、自分はこれからどう受け止めて生きていくのか。

起きてしまった出来事そのものを変えることはできません。

しかし、その出来事を自分の人生の中でどう受け止めるかは、時間をかけながら変えていくことができます。

幸せは、どこにあるのか

相対的な幸せが悪く、絶対的な幸せが優れているという話ではありません。

お金があって嬉しい。

仕事がうまくいって嬉しい。

家族と笑えて嬉しい。

それでいいのです。

ただ、それだけではなく、自分の中にも小さな幸せを持っておく。

今日も生きている。

ご飯がおいしい。

誰かと話せた。

空がきれいだった。

そんなものまで数えてみると、人生は少し違って見えるのかもしれません。

幸せとは、誰かに決めてもらうものではないのでしょう。

人生が思いどおりにならないときほど、

「それでも、自分に残されている幸せは何だろう」

と問いかけてみる。

その問いから、思いもしなかった道が拓けることがあると、私は思っています。


春秋余話

人生の折々に感じたこと、歳月を重ねて気づいたことを綴っています。

春秋余話

人生を重ねていると、若い頃には分からなかったことが、ふと分かる瞬間があります。

人との出会い。

別れ。

仕事。

家族。

失敗や挫折。

そして、何でもない一日のありがたさ。

「春秋余話」は、そんな人生の折々に私が感じたことを綴る随筆です。

ここに正解を書くつもりはありません。

誰かを説得したり、自分の考えを押しつけたりするための文章でもありません。

歳月を重ねるなかで、自分自身が考えたこと、気づいたこと、忘れたくないと思ったことを、言葉にして残していきます。

一篇を読み終えたあと、ほんの少し立ち止まって、

「自分はどうだろう。」

と思っていただけたなら、それで十分です。


春秋余話 ― 随筆一覧

言葉の歳月

若い頃は、自分の正しさを伝えることに一生懸命だった。

しかし歳月を重ね、人と出会い、別れ、さまざまな経験をするうちに、言葉に対する考え方も変わっていきました。

誰かに勝つための言葉から、誰かと分かり合うための言葉へ。

「言葉の歳月」を読む


願いと歳月

子どもの頃、短冊に書いた願い。

歳を重ねた今、同じ短冊を前にすると、願うことがずいぶん変わっていることに気づきます。

願いが小さくなったのではない。

守りたいものが増えたのだと思います。

「願いと歳月」を読む


試練という文字

人生で思いどおりにならないことに出会ったとき、「試練」という言葉をどう受け止めるのか。

苦しい時間をただ美化するのではなく、その経験をこれからの人生にどう生かしていくのかを考えます。

「試練という文字」を読む


「神様は乗り越えられない試練は与えない」を考える

よく耳にする「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉。

本当にそうなのだろうか。

苦しんでいる人に簡単にこの言葉をかけてよいのだろうか。

歳月を重ねた今の自分なりに、この言葉について考えました。

「神様は乗り越えられない試練は与えない」を読む


夏至のひかり

一年で最も昼の長い夏至。

季節が静かに移ろっていくなかで、光や時間、そして日々を生きることについて綴りました。

「夏至のひかり」を読む


子育てに正解なんてない

子育てには練習がありません。

毎日が本番です。

四人の子どもを育てながら、叱り、悩み、後悔し、そして笑ってきました。

子どもを育てているつもりが、本当は親である自分が育てられているのかもしれません。

「子育てに正解なんてない」を読む


「これでいいのだ」というお話

そのときは不幸にしか思えなかった出来事が、後になって自分を救っていたことがあります。

人間万事塞翁が馬。

人生の出来事を、その瞬間だけで幸不幸と決めなくてもいいのかもしれません。

「これでいいのだ」というお話を読む


幸せは、どこにあるのか

お金、仕事、地位、人からの評価。

外側から与えられる幸せも、もちろん大切です。

けれど、それだけではなく、自分の内側にも幸せを持つことができたなら。

相対的な幸せと絶対的な幸せという二つの視点から、「幸せとは何か」を考えます。

「幸せは、どこにあるのか」を読む


なぜ「春秋余話」を書くのか

若い頃の私は、もっと強い言葉が好きだったように思います。

正しいか、間違っているか。

勝ったか、負けたか。

そんなふうに物事をはっきり分けたくなる時期もありました。

けれど、人生はそれほど単純ではありませんでした。

正しいと思っていたことが、立場を変えると違って見える。

失敗だと思っていた出来事に、何年も経ってから助けられる。

失ったと思ったからこそ、今あるもののありがたさに気づく。

人は歳月を重ねながら、少しずつ物事の見え方が変わっていくのでしょう。

「春秋余話」は、その変化を残しておく場所でもあります。

十年後に読み返したら、また違うことを考えているかもしれません。

それもまた、悪くない。


 

 

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