春秋余話
試練という文字
「神様は乗り越えられない試練は与えない。」
人生には、不思議と何度も耳にする言葉があります。
励ましとして語られることの多い言葉です。
私も神職として長く歩む中で、この言葉を幾度となく耳にしてきました。
けれど、歳月を重ねるほど、少し違う見方をするようになりました。
人生には、どう考えても乗り越えられない出来事があります。
大切な人との別れ。
思いもよらぬ病。
努力だけでは届かない現実。
それらを前にして、「きっと乗り越えられる」と言われると、かえって苦しくなることがあります。
だから私は、「試練」は必ずしも乗り越えるものではないのだと思うのです。
「試練」という文字を眺めてみると、不思議なことに気づきます。
「試す」と「練る」。
もちろん、これは言葉の由来を説明しているわけではありません。
ただ私は、この「練る」という字に心を惹かれます。
困難に出会ったとき、どう受け止めたのか。
どう考えたのか。
どう工夫したのか。
時には逃げたのかもしれません。
回り道をしたのかもしれません。
誰かに助けてもらったのかもしれません。
あるいは、ただ静かに耐えるしかなかった日もあったでしょう。
その一つひとつを、自分の中でゆっくりと咀嚼し、意味を見いだしていく。
私は、それもまた「練る」ということなのではないかと思っています。
困難そのものが、人を強くしてくれるとは限りません。
苦しんだから立派になるわけでもありません。
けれど、その経験をどう受け止め、その後をどう生きてきたのか。
何年も経ってから振り返ったとき、そこに以前とは違う自分を見つけることがあります。
ですから私は、「試練を乗り越えなければならない」とは思いません。
乗り越えられない日があってもいい。
立ち止まる日があってもいい。
回り道をしてもいい。
誰かの力を借りてもいい。
大切なのは、乗り越えたという結果だけではなく、その出来事とともに自分がどう生きてきたのかということではないでしょうか。
すぐに答えが出るものばかりではありません。
何年も経って、ようやく意味が変わって見えることもある。
人を育てるのは、試練そのものではなく、それを抱えて歩いた歳月なのかもしれません。


