夏至という言葉には、どこか明るい響きがある。
一年のうち、昼の時間が最も長くなるころ。
太陽は高く昇り、夕方になってもなかなか暮れない。
仕事を終えて外へ出たのに、まだ空が明るい。そんな日に、ああ、夏至のころなのだなと思うことがある。
けれど、夏至には少し不思議なところがある。
一年で最も昼の長い日を迎えたその日から、今度は少しずつ昼が短くなってゆくのである。
光が極まったところから、すでに次の季節が始まっている。
暦というものは、よくできている。
春が来たと思えば夏へ向かい、夏の盛りを待たずして、その奥にはもう秋の気配が用意されている。
人の目には昨日と今日で何も変わらないように見えても、季節は一日たりとも立ち止まってはいない。
夏至は二十四節気の一つである。
「夏至だから日の出が一年で最も早く、日の入りが最も遅い」と思われがちだが、実はそうではない。
日本では一般に、最も早い日の出は夏至より少し前に、最も遅い日の入りは少し後にやってくる。それでも日の出から日の入りまでを合わせれば、夏至のころに昼の時間は最も長くなる。
昔の人は、今のように時計や暦を簡単に確かめられない時代から、太陽の動きを見つめ、季節を知ってきた。
田を耕すにも、種をまくにも、実りを待つにも、季節を知ることは暮らしそのものであった。
空を見上げることは、今よりずっと切実なことであったのだろう。
太陽は、ただ明るければよいというものでもない。
日照りが続けば作物は枯れ、雨が続けば実りに影響する。
自然は恵みを与えてくれると同時に、人の力ではどうにもならない恐ろしさも持っている。
だからこそ人は、自然に感謝し、また畏れた。
私は、この**「畏れる」**という感覚が好きである。
怖がるということだけではない。
自分よりはるかに大きなものを前にして、人の力など小さなものだと知る感覚である。
太陽を昇らせることもできなければ、雨を降らせることもできない。
それでも私たちは、朝になれば太陽が昇ることを、いつの間にか当たり前のこととして暮らしている。
同じ太陽の節目でも、反対側にある冬至は、私たちの暮らしの中に比較的多くの風習を残している。
柚子湯に入り、南瓜を食べる。
南瓜は「なんきん」とも呼ばれる。
「ん」のつく食べ物を食べて運を呼び込むという「運盛り」の話も伝えられ、なんきんのほか、れんこん、にんじん、ぎんなん、きんかんなどが挙げられることもある。
冬至は、一年で昼が最も短くなるころ。
けれど、その日を境として、今度は少しずつ昼が長くなってゆく。
古くから中国では、陰が極まって陽へ転じる「一陽来復」という考え方とも結びついてきた。
一方の夏至はどうだろう。
冬至の柚子湯や南瓜ほど、全国どこでも同じという風習は、すぐには思い浮かばない。
けれど、夏至から半夏生のころには、土地土地の暮らしに根ざした習慣が残っている。
関西では、このころに蛸を食べる習慣が知られている。
田植えを終えた時期、稲の根が蛸の足のように大地へしっかりと張ることを願ったともいわれる。
土地によっては、小麦を使った餅を食べるところもある。
暦の節目は、単に空の上だけの出来事ではなかったのである。
田畑があり、食べ物があり、家族の暮らしがあり、そして祈りがあった。
日本人は季節を、暦で「知る」だけではなく、食べ、祈り、暮らすことで感じてきたのだろう。
夏至と冬至を並べてみると、面白い。
夏至は、光が最も満ちる日。
しかし、その翌日から光は少しずつ減ってゆく。
冬至は、光が最も乏しくなる日。
しかし、その翌日から光は少しずつ戻ってくる。
満ちたところから欠けはじめ、欠けきったところから、また満ちはじめる。
自然は、どちらか一方へ進み続けることがない。
暑さも寒さも、明るさも暗さも、やがて極まり、そして転じてゆく。
昔の人がそこに何かを感じたとしても、不思議ではない。
人の暮らしも、少し似ているのかもしれない。
うまくいっているときが、永遠に続くわけではない。
反対に、思うようにならない日々が、永遠に続くわけでもない。
ただ、ここで人生訓めいたことを言い過ぎるのはやめておこう。
季節は人間を励ますために巡っているわけではない。
こちらの都合などお構いなしに、ただ巡っている。
その淡々としたところが、私はよいと思う。
夏至の日だからといって、何か特別なことをしなければならないわけではない。
願い事を書く必要もなければ、「太陽の力」を身体いっぱいに取り込もうとする必要もない。
ただ、いつもより少しだけ空を見上げてみる。
夕方になっても残っている明るさを眺めてみる。
それだけでも十分ではないかと思う。
若いころは、季節が巡ることなどあまり気にしなかった。
春が来れば暖かくなり、夏になれば暑くなる。
それくらいのものであった。
けれど歳を重ねるにつれ、一年の中にある小さな変化が、以前より目に留まるようになった。
日の長さ。
風の匂い。
雲の高さ。
蝉の声。
夕暮れの早さ。
毎年同じように巡ってくるのに、同じ夏至は二度とない。
去年の夏至と今年の夏至では、自分も、周りにいる人も、少しずつ違っている。
そう思えば、季節を感じるということは、単に自然を眺めることではなく、自分が過ごしてきた時間を知ることでもあるのだろう。
一年で最も光の満ちるころ。
長い一日が暮れてゆく。
そして明日からは、誰にも気づかれないほどわずかに、昼が短くなってゆく。
その先には秋があり、冬至があり、やがてまた光が戻ってくる。
季節とは、そうして静かに次の季節を連れてくるものらしい。
今年もまた、夏至を迎えた。
そんなことを思いながら、長い夕暮れの空を眺めている。


