春秋余話|勝ち負けの向こう側

春秋余話

春秋余話 勝ち負けの向こう側

若い頃は、努力すれば報われるものだと思っていた。

努力した者が勝ち、努力しなかった者が負ける。

そんなふうに、世の中はもう少し単純にできているものだと思っていたのである。

けれど、歳を重ねると、どうもそうではないことが分かってくる。

同じように努力しても、勝つ人がいれば負ける人もいる。

誰より稽古した者が負けることもあれば、力を尽くして取り組んだ仕事が実らないこともある。

努力したからといって、成功が約束されているわけではない。

考えてみれば、勝負というものは当然である。

一人が勝てば、一人は負ける。

百人が同じ頂を目指したとしても、全員が一番になることはできない。

だから、結果だけを見て人の努力まで量ろうとすると、どこかで無理が生じる。

負けたから努力が足りなかったとも限らない。

勝ったから人として優れているとも限らない。

勝ったことで驕ることもある。

負けたことで、初めて見えるものもある。

もっとも、負けたその日にそんなことを言われても、なかなか素直には聞けない。

悔しいものは悔しい。

つらいものはつらい。

「これはあなたの成長のためですよ」

などと言われたところで、

「それは結構。今は勝たせてくれ」

と言いたくなることだってある。

しかし不思議なもので、何年も経ってから振り返ると、あの頃の負けや失敗が、自分の中に残っていることに気づく。

成功した記憶よりも、うまくいかなかった出来事の方が、人の心を深くすることさえある。

私自身、昔は「神様は人を成長させるために逆境を与えるのだ」と考えていた。

今は、そこまで言い切らなくなった。

なぜ、その出来事が起きたのか。

それが神意であったのか。

人間である私には、分からない。

ただ一つ、歳月を経て思うことがある。

自分が痛みを知った分だけ、誰かの痛みを想像できるようになることがある。

思いどおりにならなかった経験があるから、思いどおりにならない人の横に立てることもある。

自分が負けたことがあるから、負けた人にかける言葉を少し考えるようになる。

それは、勝ち続けていたら手に入らなかったものかもしれない。

人は誰しも、できれば幸せに生きたい。

わざわざ苦労を探しに行く必要などないし、苦しみに耐えることそのものが立派なのだとも思わない。

逃げた方がよい場所もある。

休んだ方がよい時もある。

それでも、生きていれば思いどおりにならない日はやってくる。

そんなとき、すぐに意味を見つけなくてもいいのだと思う。

今日の苦しみに、今日答えを出す必要はない。

何年か先になって、

「あれがあったから、少し分かるようになった」

と思える日が来るかもしれない。

来ないかもしれない。

それもまた、人の世である。

努力すれば、必ず成功する。

そんな約束を、神様はしてくださらないのだと思う。

では、何を約束してくださるのか。

それも私には分からない。

ただ、勝った日も、負けた日も、喜んだ日も、どうにもならなかった日も、すべて抱えて人は歳を重ねていく。

そうして振り返ったとき、

勝ったか負けたかだけでは量れないものが、自分の中に残っている。

近頃は、それでいいのではないかと思っている。

勝ち負けの向こう側に何があるのか。

それを知るには、もう少し歳月が必要らしい。

 

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